米澤穂信『王とサーカス』完読〜報道について考える〜 [小説・本の紹介]
報道とは何か、報道は何のためにあり、誰のために伝えるのか。米澤穂信の小説『王とサーカス』は一人のフリージャーナリストが、この問いに対して考え、悩み、一つの答えを見つける物語です。
主人公の名は太刀洗万智。作者の2004年の作品『さよなら妖精』では脇を固めた彼女が、記者となって再登場します。彼女は新聞社を辞めてフリーになったばかりのジャーナリストで、雑誌の旅行記事の事前取材でネパールの首都カトマンズに滞在しています。そこで偶然にも王族の殺害事件に出くわし、急遽その取材に走ることになります。
これは2001年に実際に起きた事件に基づいており、おそらく資料も多く残されているのでしょう。主人公は取材を通して、記者の目線で、町の空気の変化や人々の感情の浮き沈みを克明に語っていきます。
その取材の最中、主人公は別の殺人事件に遭遇します。殺害されたのは、カトマンズで彼女が出会った人物でした。ここから物語の焦点はガラリと一変し、この事件について記事に書くべきか、書かないべきかという記者としての葛藤と、王族殺害事件と関わりがあるのか、ないのかの「裏取り」と称した謎解きが始まるのです・・・。
本作の最も重要なテーマは「報道のサーカス化」であると思います。主人公はカトマンズという異文化に触れ、様々な日本との違いを経験します。それは生活環境や労働環境、衛生面にも及びます。そして真っ向から取り上げるのは王族殺害という国家スキャンダルです。
これを日本に伝えることで、読者は何を感じるのか、何に気づくのか、そして書面からはみ出て書けなかったことで、何に気づかないのか。自分が報じたことでネパールに何が起こるのか。こうした問いに対して、主人公がこの街での取材を通して、人々と話をして、自分の答えにたどり着く、このプロセスは実に読み応えがあります。
彼女にとって、ここで出した答えは自分の職業に対して誠実であろうとする気持ちから出たものなのだろうと思います。しかし個人で情報を伝えるメディアを持つこの時代、報道とは何ら関係のない仕事をしている私たちにも、伝えることの意味を考えることは、必要なことなのかもしれません。
それからもう一つ。作中で主人公は、自分の奥底にある冷たい狂気に気づかされます。一歩踏み出す先を間違えたら、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない、という内に秘めたもの。これは米澤穂信作品に共通するテーマではないかと思っているのですが、作者は何らかの形でその狂気に光を当て、今回もそれを覗かせました。
私はこの部分に強く共感していて、この黒さが米澤穂信作品に引き寄せられる理由の一つだと思っています。私はこの狂気は、誰の中にもあるのだと思うのです。だからこそ、自分が如何に真っ当な市民であろうと思っていても、実は何をしでかすか分からない、いつ間違えるか分からないのだという、この戒めを自覚しているかどうかで、生き方は変わってくるのではないかと思うのです。
そう思っていればこそ、ワイドショーを賑わすサーカスじみたスキャンダルにも寛容になれるのではないかと思うのです。
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主人公の名は太刀洗万智。作者の2004年の作品『さよなら妖精』では脇を固めた彼女が、記者となって再登場します。彼女は新聞社を辞めてフリーになったばかりのジャーナリストで、雑誌の旅行記事の事前取材でネパールの首都カトマンズに滞在しています。そこで偶然にも王族の殺害事件に出くわし、急遽その取材に走ることになります。
これは2001年に実際に起きた事件に基づいており、おそらく資料も多く残されているのでしょう。主人公は取材を通して、記者の目線で、町の空気の変化や人々の感情の浮き沈みを克明に語っていきます。
その取材の最中、主人公は別の殺人事件に遭遇します。殺害されたのは、カトマンズで彼女が出会った人物でした。ここから物語の焦点はガラリと一変し、この事件について記事に書くべきか、書かないべきかという記者としての葛藤と、王族殺害事件と関わりがあるのか、ないのかの「裏取り」と称した謎解きが始まるのです・・・。
本作の最も重要なテーマは「報道のサーカス化」であると思います。主人公はカトマンズという異文化に触れ、様々な日本との違いを経験します。それは生活環境や労働環境、衛生面にも及びます。そして真っ向から取り上げるのは王族殺害という国家スキャンダルです。
これを日本に伝えることで、読者は何を感じるのか、何に気づくのか、そして書面からはみ出て書けなかったことで、何に気づかないのか。自分が報じたことでネパールに何が起こるのか。こうした問いに対して、主人公がこの街での取材を通して、人々と話をして、自分の答えにたどり着く、このプロセスは実に読み応えがあります。
彼女にとって、ここで出した答えは自分の職業に対して誠実であろうとする気持ちから出たものなのだろうと思います。しかし個人で情報を伝えるメディアを持つこの時代、報道とは何ら関係のない仕事をしている私たちにも、伝えることの意味を考えることは、必要なことなのかもしれません。
それからもう一つ。作中で主人公は、自分の奥底にある冷たい狂気に気づかされます。一歩踏み出す先を間違えたら、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない、という内に秘めたもの。これは米澤穂信作品に共通するテーマではないかと思っているのですが、作者は何らかの形でその狂気に光を当て、今回もそれを覗かせました。
私はこの部分に強く共感していて、この黒さが米澤穂信作品に引き寄せられる理由の一つだと思っています。私はこの狂気は、誰の中にもあるのだと思うのです。だからこそ、自分が如何に真っ当な市民であろうと思っていても、実は何をしでかすか分からない、いつ間違えるか分からないのだという、この戒めを自覚しているかどうかで、生き方は変わってくるのではないかと思うのです。
そう思っていればこそ、ワイドショーを賑わすサーカスじみたスキャンダルにも寛容になれるのではないかと思うのです。
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