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映画「沈黙ーサイレンスー」鑑賞 [アート]

 遠藤周作原作でマーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンスー」を観てきました。ラジオで伊集院光さんと宇多丸さんに薦められて、というのは後付けの理由で、もともと観るつもりでいました。観たあとで気付いたのですが、私はこのブログで7年前に原作のブックレビューを書いていました。

blog-321映画「沈黙」.jpg


 今作を鑑賞していて、まず感じたのが、やはり私はキリスト教徒の神への信仰を根本の部分で理解することはできないということでした。これは現在の私の実感です。原作を読んだ頃や学生時代から考えると、少しキリスト教から離れすぎてしまいました。あの頃の方が今よりは真に迫って理解できたのかもしれません。


 …ここで筆が止まってしまいました。やっぱりネタバレせずに書くのは無理ですね。ネタバレをしないできれいにまとめた文章は7年前の私の記事を見てやってください。結構いいこと書いてます(笑)

 ↓7年前の記事↓
 【遠藤周作『沈黙』〜ブックレビュー〜】


 以下、ネタバレありです。


 私は、この映画の中での日本人の描かれ方、特にキリシタンを迫害する日本人たちの描かれ方がとても見事だと思いました。彼らは悪人ではなく、ただ仕事だからキリシタンに棄教を迫り、ただ平和が脅かされるからキリスト教を嫌っているのです。


 奉行はキリスト教をよく理解しようと努め、無知や無理解ではなく、統治のためにキリシタンを取り締まっている。取り締まる役人たちは、棄教を拒み、死んでゆく百姓を見るのに嫌気が差している。彼らにも悪気はない。…でもやはり、そこには武士と百姓という日本における身分格差の問題が厳然として現れています。


 イッセー尾形さん演じる奉行の井上(この演技がまた戦慄するほど見事)は、司祭である主人公が、本質的に信仰を捨てることが出来ないことをわかっているのだと思います。それは日本人のキリシタンも同じ事で、踏み絵に何の意味もないことがわかっているんです。だから形式だけのものだと何度も強調します。役人にとっては形だけあればそれでいいのだから。


 結局のところ、主人公は苦しみに苦しみを重ねた末に棄教を選びます。苦しむ信徒を前に、苦しむ自分を前に、沈黙を続ける神に、彼は何度も語りかけ、なぜ沈黙を続けるのかと問い続けます。そして、棄教を選んだのです。


 この意味です。これは映画を見ればもちろんわかることですが、この意味は、尊いです。彼が棄教を選べたこと、目の前のイエスの銅版画を踏みつけることができたことは、神が彼に語りかけたことを意味しています。キリスト教においては、生きること、生かすこと、救うこと、救われることが何よりも大切なことなのです。だから悔い改めることが出来るのです。


 それゆえのキチジローです。ここに来てキチジローの存在が強く現出します。彼は作中、何度も踏み絵を踏み、転び、そのたびに主人公に告解を求めます。人間的で、滑稽で、合理的な思考を持つトリックスターですが、彼もまた最後まで信仰を続けていました。


 この物語の結論はここにあるんだと思います。「キリスト教の本質って究極的には神の愛だよね」っていうことです。信仰のためにどれだけ苦しんでも、何度躓いても、何度間違えても、主はあなたのことを愛している、そのことです。神は常にあなたの心の中に在って、あなたの人生の経験すべてを見守っている、そのことです。


 これは聖書にも書いてあって、みんなが何度も読み返していて、みんなが知っていることです。だからこそ埋もれていて、みんなが通り過ぎてしまうことなのかもしれません。この真理を掘り起こしてもらえただけで、ありがたい作品でした。…これでまとまったかな?


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