『妖女サイベルの呼び声』〜ブックレビュー〜 [小説・本の紹介]
今回はパトリシア・A・マキリップのファンタジー小説『妖女サイベルの呼び声』を紹介します。日本での初版が1979年と古めですが、当時の世界幻想文学大賞受賞作だけあって、中身はしっかりしています。
物語は幻想と魔法が入り乱れる純粋な異世界ファンタジーですが、私が読んだ印象では、核となるテーマは「愛と復讐の連鎖」にあると感じました。
この作品の主人公はタイトルにもある妖女サイベル。この女性は山に住み、不思議な呼び声を使って神話に出てくるけものたちを手なずけています。この声に呼ばれた者はだれであろうと彼女の元へと導かれ、彼女が相手の心(マインド)に忍び込めば、心を操作することもできます。
しかし、彼女は下界との接点を持たず、山でけものたちと一緒にひっそりと暮らすことを望み、そのように暮らしていました。そこへある王子が、一人の赤子を連れてくるところから物語は動き始めます。サイベルはちょっと訳ありの赤子タムローンを引き取り、その子に愛を注いで育てていくことになるのですが、そのときから彼女は、もはや外の世界と隔絶して暮らすことはできない運命となるのです。
以下、ちょっとネタバレもあり
サイベルは下界での諍いに巻き込まれて、タムローンの父親に復讐を誓うことになります。しかし、タムローンを傷つけまいとする彼への愛から、彼女は復讐の気持ちをひた隠しに隠して目的へと歩んでいきます。
私は「復讐の思想」を乗り越えることが、人類にとっての重要なテーマの一つだと考えています。この物語にも「復讐の思想への挑戦」というテーマが感じられます。やられたらやり返す、自分を辱めた者にはそれ以上の辱めを受けさせる、正義のために報復を行う、この理論を続けていけば、憎しみは必ず連鎖し、とめどなく増幅します。私たちはどこかで、それを止めなければならないのです。
この思想を乗り越えた最も有名な人物がイエスです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5章39節)。復讐を禁じた新約聖書の一節です。そして彼は死に際しても、復讐を望まず、「許し」の思想を貫きました。
復讐を越えることを選んだ唯一の国が日本です。戦争で多くの犠牲者を出し、悲惨な爆弾を落とされた国の人々は、憎しみを越えて「もういい」「もうやめよう」の境地にたどり着いたのです。憲法九条は、一つの真理を表していると私は思います。もしこれが、人類の歴史の地平に不意に顔を出した真理の芽吹きだとしたら、たとえどんなに場違いな花の芽だとしても、大事に大事に育てていくのが私たちの使命なのではないでしょうか。
だいぶ話がずれましたね。閑話休題。話を戻しましょう。
「巨人のグロフは片眼に礫(つぶて)を喰らった。するとその眼は裏返って彼の心をのぞき見た。彼はそこに見たもののゆえに死んだのだ」これは作中で深い知識を持つ猪サイリンが語る印象深い言葉です。
復讐に突き進む人間が、ふと気を緩め、鏡の前に立ったとき、そこにはきっと復讐を果たすべき相手の顔が映っているはずです。怪物を打倒するために生きてきたはずなのに、実は自分が怪物になっていた。そのことに気づいたとき、人間はそれに耐えることができるのでしょうか。
復讐の鬼と化したサイベルは、目的のためには手段を選ばず、どんなに冷酷なことでも平気でやってのけます。この復讐劇の結末に何が待っているのかは、みなさん自身の目で確かめていただくことにして、この記事を締めくくりたいと思います。
物語は幻想と魔法が入り乱れる純粋な異世界ファンタジーですが、私が読んだ印象では、核となるテーマは「愛と復讐の連鎖」にあると感じました。
この作品の主人公はタイトルにもある妖女サイベル。この女性は山に住み、不思議な呼び声を使って神話に出てくるけものたちを手なずけています。この声に呼ばれた者はだれであろうと彼女の元へと導かれ、彼女が相手の心(マインド)に忍び込めば、心を操作することもできます。
しかし、彼女は下界との接点を持たず、山でけものたちと一緒にひっそりと暮らすことを望み、そのように暮らしていました。そこへある王子が、一人の赤子を連れてくるところから物語は動き始めます。サイベルはちょっと訳ありの赤子タムローンを引き取り、その子に愛を注いで育てていくことになるのですが、そのときから彼女は、もはや外の世界と隔絶して暮らすことはできない運命となるのです。
以下、ちょっとネタバレもあり
サイベルは下界での諍いに巻き込まれて、タムローンの父親に復讐を誓うことになります。しかし、タムローンを傷つけまいとする彼への愛から、彼女は復讐の気持ちをひた隠しに隠して目的へと歩んでいきます。
私は「復讐の思想」を乗り越えることが、人類にとっての重要なテーマの一つだと考えています。この物語にも「復讐の思想への挑戦」というテーマが感じられます。やられたらやり返す、自分を辱めた者にはそれ以上の辱めを受けさせる、正義のために報復を行う、この理論を続けていけば、憎しみは必ず連鎖し、とめどなく増幅します。私たちはどこかで、それを止めなければならないのです。
この思想を乗り越えた最も有名な人物がイエスです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5章39節)。復讐を禁じた新約聖書の一節です。そして彼は死に際しても、復讐を望まず、「許し」の思想を貫きました。
復讐を越えることを選んだ唯一の国が日本です。戦争で多くの犠牲者を出し、悲惨な爆弾を落とされた国の人々は、憎しみを越えて「もういい」「もうやめよう」の境地にたどり着いたのです。憲法九条は、一つの真理を表していると私は思います。もしこれが、人類の歴史の地平に不意に顔を出した真理の芽吹きだとしたら、たとえどんなに場違いな花の芽だとしても、大事に大事に育てていくのが私たちの使命なのではないでしょうか。
だいぶ話がずれましたね。閑話休題。話を戻しましょう。
「巨人のグロフは片眼に礫(つぶて)を喰らった。するとその眼は裏返って彼の心をのぞき見た。彼はそこに見たもののゆえに死んだのだ」これは作中で深い知識を持つ猪サイリンが語る印象深い言葉です。
復讐に突き進む人間が、ふと気を緩め、鏡の前に立ったとき、そこにはきっと復讐を果たすべき相手の顔が映っているはずです。怪物を打倒するために生きてきたはずなのに、実は自分が怪物になっていた。そのことに気づいたとき、人間はそれに耐えることができるのでしょうか。
復讐の鬼と化したサイベルは、目的のためには手段を選ばず、どんなに冷酷なことでも平気でやってのけます。この復讐劇の結末に何が待っているのかは、みなさん自身の目で確かめていただくことにして、この記事を締めくくりたいと思います。
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