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オリンピックと日本のいじめの話と未熟さの許容と [日記]

 先日、2021年7月23日に東京オリンピックの開会式が行われました。オリンピック開催の是非について、私は個人的に賛成も反対もないスタンスを取っていました。仕事柄、オリンピック関連の商品を売っているので、中止でいいとは思わないですし、とはいえコロナの現状を考えた時に、いろいろとめんどくさいな、とは思っているという感じです。どっちでもないし、どっちでもある感じ。観戦チケットはハナから抽選にも参加していません。


 2020が東京じゃなければ、いつものようにただテレビで流れていれば観る、そんでTwitter見ながらめちゃくちゃ盛り上がる、ぐらいで終わっただろうという感覚です。で、実際に24日は上記の通りにテレビで見ていました。


 さて、TOKYO2020の開催直前に、複数の開会式制作関係者が辞任・解任されました。それぞれの経緯については調べてください。


◇「いじめ」が繰り返されている
 まず、小山田圭吾氏の「いじめ発言」に端を発する一連の騒動について。私の思うところを話したいと思います。まず、私は小山田氏について、この問題が出て来るまで名前を認識していませんでした。彼の音楽を彼の音楽と認識して接種していたことはありません。だから小山田氏を私的感情で擁護する気持ちはひとつもありません。


 彼がやったと語っているいじめが愚かでひどい行いである事を前提とした上で、それでも彼個人に非難の声を浴びせ続けることは、看過されるべきことではないと思っています。この問題に限ったことではないですが、批判から糾弾へというこの流れは、この国のいじめ文化の根が深いことの現れではないでしょうか。


 私は、いじめというのは、明確に加害者と被害者が整理できるものではなく、ある集団の構成員の関係性の中で生まれるある種の歪み(ひずみ)だと思っています。そしてそれは、特定の個人に責めを負わせることで解決する事柄ではないと考えています。つまり、今回の問題で彼ひとりを糾弾して強制退場させても、何も解決しないということです。


 いじめっ子がいじめられっ子に取って代わることなんて、この世で最もありがちなプレーのひとつです。フィールドが数十年前の彼がいた学級もしくは学校から日本全体あるいは全世界に変わっただけで、社会から彼個人へのいじめが新たに始まっただけなのです。


◇「いじめという病」は言葉を換えて世の中に蔓延している
 いじめは、日本人が大好きな「空気」をを媒介して伝染する精神的病(やまい)です。ひとりがいじめ、もうひとりがいじめられる関係が生まれると、それを取り巻くあらゆる人間は「傍観者」として強制的にいじめに感染させられます。


 それは学校という未熟な人間が多い空間に特有のものではなく、3人以上の人間がいるフィールドであれば誰もが感染するものなんです。スポーツ界では「しごき、かわいがり」、大人社会では「パワーハラスメント、セクシュアルハラスメント、○○ハラスメント」、表現を変えてあらゆる集団で起きる最もポピュラーな非道徳的な行為です。


 つまり、いじめとは社会全体の問題なのです。あの記事が事実で、それによって傷ついた人がいるなら、それが起きた原因を調べ尽くして、その社会の構成員全員が納得する形で和解をしなければ解決とは言えないものなんです。


 私は小山田氏本人の行いや人間性の是非を言っているのではありません。彼を批判し、糾弾することは、わかりやすいいじめの対象を見つけて攻撃していることと同じではないか、ということです。


 言葉で誰かを糾弾することは、快楽を伴います。それに正義が乗っかれば、その快楽は増すでしょう。直接的な暴力のように自分の心は痛まない、けれど相手には深いダメージを与えられる。芸能人の不倫・不祥事、政治家の汚職、その度に「炎上」というキャッチーな言葉にすり替えられて、非道徳者へのいじめが行われています。スケープゴートを作って罵ることは、いじめをエンタメとして消費して、ストレスを発散しているだけでしかないのです。


◇オリンピックにふさわしくない人間とは誰か
 批判を受けて退場した各人について「オリンピックにふさわしくない」という言葉が使われることについても違和感を覚えます。平和の祭典を自称しながら、過去に過ちを犯した人間を拒絶するのは、あまりにも狭量ではないでしょうか。


 私は危険とされる思想を持つ人も、過去に罪を犯した人も、オリンピックの理想から排除されるべきではないと思うんです。そうでなければ、本当の平和なんて実現するわけがないんです。


 オリンピックは未だに国籍の枠組みを解消できていないし、競技は男子と女子に分かれていて、LGBTQへの対応は十分ではありません。これが現時点で問題視されているかはわかりませんが、解決するのは困難な課題だと思います。平和の祭典を冠するオリンピックも現時点では未熟な段階にあると私は考えます。


◇未熟さを受け入れること
 犯罪者は生まれた時から犯罪者だ。という考え方があります。生まれながらに悪い奴は、どうあがいても悪い奴、だから何を言っても無駄、断罪して排除するしかない。それは見せしめとしても必要だ。と言われますが、私はそうは思いません。誰かを見下す感情、恨みや怒り、どうしようもない悪意は私の中に存在しています。かっこよく書いていますが、ふつーに愚かです。愚かで間抜けで怠け者です。


 そんな私が犯罪に手を染めていないのは、私が善人だからではなくて、いま、犯罪をしていないという状態に過ぎないんだと思うんです。もちろん私が今までに一度も悪いことをしたことがないって言ってるわけではなくて、法律では規定されていない良くないことは山ほどしていて、日々後悔と情けなさの中で生きています。


 だからこそ、人々は咎め合い、傷つけ合うのではなく、許し合い、愛し合うことが必要なんです。私もあなたも等しく愚かで未熟だから。


◇正義の対義語はもうひとつの正義
 俺のコレとあいつのアレは違う。一緒にするな。と言う人がいます。でも、程度の差なんて問題じゃないでしょう。義憤に駆られて犯した罪も悪意に飲まれて犯した罪も同じ罪です。それとこれとは正義の違いでしかないのかもしれません。


 奇しくも今回の件で取り沙汰されている「ホロコースト」も、ナチスにとっては正義だったはずです。もちろんドイツの人々はそれにけじめを付けて、いけないことだったと清算しています。でもそれは、同じ事が起こりそうなときに、危険思想を排除するのであれば、同じ事の繰り返しになってしまいます。正義が変わっただけなんです。


 私は、正義の対義語は悪ではなく、もう一つの正義だと考えています。


 もっとも、凄惨な事件、愚かしい行いを目にした時に「ひどすぎる、信じられない、あんまりだ、許せない」と思うことは当然の感情です。我慢できずに言葉にしたり、ツイートしたりしたことは私でもあります。でもやっぱり、そこで終わらずに、立ち止まって考える必要があると思うんです。


 そして、仮にも「メディア」を自認する機関に属する人々は、事実を詳細に精査して、非道徳者の事情を十分に考慮して、なぜ起きたのか、こうならないためには今後なにを変えていけばいいか、を考えることに時間を使ってほしいです。正義と正義がぶつかっていれば、誤解を解いていくことがメディアの責任ではないでしょうか。


◇聖書は明快で困難なハウツー本。
 これらのことはすべて、私ができているから書いているのではありません。今の世の中で、これらを一個人で実現することは究めて困難です。だからこそ、究極的な理想をぶち上げて、それに向けて議論をすることが大切なんです。


 これは私が自分の思考の中から紡ぎ出した思想ではありません。私が人生の中で見てきた、読んできた、聞いてきた物語や芸術から得てきたものです。世の中はこんなにも美しい芸術で溢れているのに、伝わるのは難しく、実践するのはさらに難しいんです。


 極端なことを言えば、私が書いたようなことは、すべて聖書に書かれています。新約聖書は最も分かりやすく、最も実践が難しいハウツー本です。究極の理想を実践的に体現したのがイエスです。そしてイエスは、それが「ふつうのひと」には到底できないことだと知っていたんです。だからこそ人間は罪深く、赦しが必要なんです。


 すべては愛、愛の本質は赦しです。


 ここまで一部で断定的な語尾を多く使用していますが、すべて私見です。私の思考のみで裏を取っていない言葉も多くあります。表現の未熟さはご容赦ください。


 さて、宗教家みたいなことを長々と書いてしまいまして、ここまで読んで頂けてる人がどれだけいるかわかりませんが。じゃあ今の世の中やネットを取り巻く状況の、どこが不健康なのかを考えると、新型コロナウイルスの中にあって、人々の心がギスギスしているっていうのがまずあると思います。


 まあ実際にはコロナ以前からそうなんですけど、自身の高潔さを求めようとするあまり、他人の行いを批判することに躍起になっている人が多いように思います。自粛警察もそうですけど、自分を守るために他人を刺すというような、息苦しさがあるんじゃないかと思うんです。


 必要なのは赦しです。簡単なことではありません。


 最後に、持続可能な開発目標たち=SDGsは、21世紀に生きる人々が掲げた究極の理想です。それは、今の世の中がこの理想とはかけ離れていることの裏返しでもあります。10年後、50年後に実現するためにも、理想は信じ続けなければならないと思います。


 あれ、開会式の話してない?してない!


 ごめん、もう一つ。ここまでいろいろ書きましたけど、私が言いたいことを全部言ってくれたと思ったラジオ番組がありまして。7月20日放送の「爆笑問題カーボーイ」。太田光が80分に渡って語っています。太田さんは私よりも時代と世間の状況に対して深い考察をしています。10年後、100年後まで残ってほしい音源です。太田光には愛しかない。

JUNK 爆笑問題カーボーイ | TBSラジオ | 2021/07/20/火 25:00-27:00 https://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20210721010000

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